社会福祉における歴史と発展(初期〜福祉元年)

日本の社会福祉がどのように発展してきたかを初期から福祉元年までの流れを解説保育士試験内容

そもそも日本の社会福祉はどのように発展を遂げてきたのでしょうか?現在のシステムに至るまでの間にどのような歴史の背景があったのかをみてみると面白いので見ていきましょう!

社会事業成立以前(1800年後半〜大正時代前)

この時代の日本はまだ国による社会福祉の整備がなされておらず、親族や近隣による相互扶助や宗教的背景による救済などがメインであり、明治時代に入ると社会福祉の始まりである貧困対策としての『恤救規則』(1874年〜1931年)が制定され、国家による初の公的救済制度になります。しかしこの時の対象は、70歳以上の重病の者で相互扶助から外れた者や障害者などごく一部の限られていました。(13歳以下の孤児と70歳以上の無告の窮民)

社会事業成立前の登場人物(年代順)

石井十次(1887年・岡山孤児院)

岡山孤児院を設立した石井十次。社会事業成立前の慈善活動家

石井十次は、まだ恤救規則しか無い時代に岡山孤児院(今で言う『児童養護施設』)を設立しました。この岡山孤児院では、多くの身寄りのない孤児を受け入れ、「児童福祉の父」との愛称があります。

石井十次は、元々医者を志していましたがある1人の孤児を預かったことがきっかけで岡山孤児院を設立します。当時孤児院たるものは日本になかったので、イギリスのバーナードホームを参考にして作ったとされています。当時石井十次が大切にしたことは、『家族や兄弟の温もり』です。また、当時『満腹主義』とのことで、孤児たちにお腹いっぱいにご飯を食べさせてあげることを大切にし、家庭的な雰囲気を大切にした彼は、子どもから『お父さん』と呼ばれていました。それがきっかけで石井十次は『社会福祉の父』と呼ばれています。

アルパカ
アルパカ

石井十次さんは日本で最初に孤児院を作った方だけれども、当時の世間からは「偽善者」なんて言われていたんだ。しかし、ある事件によって彼の評価が一変したんだよ!

ワニさん
ワニさん

それは東北の飢饉だね!当時東北で大規模な飢饉が起き、その時に石井十次は全ての児童を受け入れたんだ!それがきっかけで彼は世間から認められたんだよね。

石井亮一(1891年・滝乃川学園)

滝乃川学園を創設し、現代の知的障害児施設を作った人物

石井亮一は、『日本の知的障害児者教育・福祉の父』と呼ばれ、石井亮一の功績はきわめて高いとされています。その理由として、彼がいなければ、日本の知的障害に関する研究は大幅に遅れていたと言われています。彼は、知的障害児者の抱える問題は不治の障害ではなく、発達の遅滞であるということを日本で初めて主張し、彼らへの教育と治療の必要性を訴えました。

当時、石井亮一は農尾大地震が発生し、被災地で親を失ってしまった多くの孤児が発生し、その中でも少女たちが人身売買の被害を受けていることに衝撃を受け、急遽現地に駆けつけました。そこで出会ったのが、『石井十次』になります。石井亮一は石井十次と協力して、孤児の救済に尽力しました。

その際に保護した20名あまりの女子の孤児のために聖三一孤女学院を開設し、孤女の教育に励みました。しかし、その中にいた1人の知的障害児との出会いで、彼は知的障害や特殊な障害についての知見を深めるために渡米し、ヘレン・ケラーとも会見し帰国後に聖三一孤女学院を『滝野川学園』と改称して、知的障害者教育の専門機関となりました。

アリスペディーアダムズ(1981年・岡山博愛会)

アリス・ペディ・アダムスはアメリカ人宣教師で1981年に岡山県に降り立ち、日本で初となる『セツルメントハウス』となる岡山博愛会を誕生させた方です。この1981年は前者の石井十次さんや石井亮一さんと同じく、農尾地震が起きた際にアダムスさんも石井十次さんらと深い繋がりがあったということです。セツルメントというものは、そもそもの語源として、知識人がスラム街に一緒に住み、その場の社会を改善させることで、アリス・ペディ・アダムスは貧困児が多くいる場所に一緒に生活をして保護・養育・教育をしたという流れになっています。

片山潜(1897年・キングスレー館)

片山潜は、当時アメリカのサンフランシスコに留学をしていました。そこでキリスト教の洗礼を受け、西洋古典学の学位を修めて日本に帰国してきます。その後、日本で宣教師の支援を受けながら、友人らと共に神田にある自宅を改良し、日本人初のセツルメント施設である『キングスレー館』を設立しました。

留岡幸助(1897年・東京巣鴨に家庭学校)

東京巣鴨の家庭学校を設立した留岡幸助。現代の児童自立支援施設を作った人

留岡幸助は1897年に家庭学校である感化事業を始めたことで有名です。この感化とは、非行少年を更生することを言い、その活動の背景には彼の育った環境にありました。幼少期の頃、留岡幸助は留岡金助の養子となりますが、やがて勘当され、17歳でキリスト教の洗礼を受けました。それが始まりで神学科に進み、1891年には教誨師(刑務所などで改心を促す人のこと)になり、そこで感化教育の重要性を学び、「監獄学」を学びに渡米しその成果を50歳にして家庭学校として具現化しました。

野口幽香・森島峰(1900年・二葉幼稚園)

二葉幼稚園を森島峰と創設した成り行きとは?

この頃、日本にはまだ幼稚園が少なかった時代に、野口幽香は私立幼稚園の先駆けとして『二葉幼稚園』を創設しました。それに至るまでの背景は、さかのぼること1985年に、野口幽香は上京し東京女子師範学校に入学しました。しかしその1年後の1886年に父、その2年後に母親が死去したことで悲しみに暮れる彼女を支えたのはキリスト教の教えでした。その教えがきっかけになるのですが、1890年に野口幽香は東京女子師範学校を卒業し、優秀な成績を修めていたため、付属の幼稚園に務めることとなりました。その幼稚園が日本初の幼稚園である『東京女子師範学校附属幼稚園』であった。ここに在籍する園児たちはいずれも裕福な家の恵まれた子供たちであった。

世の中は西洋科が進む中、その反動で日本の貧富の差は激しくなっていった。そんな中、通勤途中に道端で貧しい子供たちを見るたびに心を痛めていた。自身が受け持つ裕福な園児と道端の児童は『どちらも等しく幸せに暮らせるような世の中でなければいけない。』と思うようになり、同じ思いを胸にした同僚の森島峰と共に二葉幼稚園を創設しました。

糸賀一雄(1946年・近江学園)

糸賀一雄は1946年に近江学園(現在の知的障害者施設)を創設。日本の障害児童福祉の第一人者と言われ、戦災孤児と知的障害児のための施設である『近江学園』や重度心身障害児のための『びわこ学園』を開設するなど生涯を障害者施設の創設に尽力しました。

また、有名な言葉としては『この子らを世の光に』というフレーズを残したことでも有名です。

アルパカ
アルパカ

これらの人たちが戦前から戦後の時代に日本の福祉を支えた慈善事業家たちなのね!気付いたと思うけど、多くの活動家さんたちはキリスト教の教えの影響を大きく受けていたりするね!

社会事業の成立期

大正時代から昭和初期の時代にかけて、日本は官民一体社会事業の組織化を推進します。その先駆けが、大阪の社会事業推進者の小河滋次郎らによって考案された『方面委員制度』です。これが現代の『民生委員制度』の先駆けとなりました。

方面委員制度とは、防貧の目的で作られた制度で、19世紀後半から西欧では救貧法の適正な実施を目的に民間の委員が設置され、それらを参考に作られた制度が大正期の米騒動前後から各地で創設され始めました。厳密には1917年に岡山県で済世顧問制度、その翌年に1918年に大阪府で方面委員制度が確立されました。

その後1929年に救護法が公布されましたが、国の財政難のため、1932年からの施行されました。その後の社会事業関連法としては1933年に(旧)児童虐待防止法少年教護法(感化法から改称)そして1936年に方面委員令が制定・公布されました。

社会福祉関連法の成立期

時代は戦後を迎え、戦争による孤児身体障害者などの問題が多く発生し、福祉が整備され始めました。また、1951年には社会福祉事業法(現:社会福祉法)が制定され、様々な福祉サービスの基本理念と原則が定められたのです。

1960年台の日本は高度成長期に突入し、高齢化問題公害問題核家族化問題など様々な生活問題が出現した時期でもあり、国民の生活問題にさらに対応すべく、福祉六法体制が確立されました。

福祉三法

  • 1946年・・・(旧)生活保護法→1950年に改正版の新生活保護法
  • 1947年・・・児童福祉法
  • 1949年・・・身体障害者福祉法

福祉六法

上記のに+して

  • 1960年・・・精神薄弱者福祉法(現在の知的障害者福祉法)
  • 1963年・・・老人福祉法
  • 1964年・・・母子福祉法(現在の母子及び父子並びに寡婦福祉法)

福祉六法が確立した当時、生活保護受給者の半分は病気によるもので、医療保険が適用されない人が多く、国民皆保険制度が求められ、また農民や自営業者には年金制度がなかったことから国民皆年金制度も求められていました。このことから、1961年に『国民皆保険』『皆年金制度』が制定され、この1960年代は福祉六法の整備に加えて、社会保険の制度も本格的に整えられてきました。

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